国指定史跡鷲ノ木遺跡出土の環状列石(ストーンサークル)

2011年11月27日

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環状列石

国指定史跡鷲ノ木遺跡の環状列石は、縄文時代後期前半(およそ4000年前)に造られました。森町の一帯は現在の地表面下に、約1から2メートルの厚さで駒ケ岳の火山灰(1640年に噴火した時の火山灰)が堆積しています。環状列石はこの火山灰のすぐ下で、石の上のほうが埋まりきらずに見えていました。厚い火山灰でパックされていたために、とても良好な保存状態を保っていました。

一般的に、環状列石はストーンサークルとも呼ばれ、石を並べたお墓がいくつも集まって円形に配列されたものと、お墓が無く石だけが1から3重の円形に並べられたものなどが知られています。鷲ノ木遺跡の環状列石は、外帯・内帯・中央帯の3重に石が丸く並べられています。これまでの調査では、石の下にお墓は作られていないようです。外側の形はやや楕円形で、長軸約37メートル、短軸約34メートルの大きさがあります。外帯と内帯はおよそ0.5メートルの幅で巡らされ、内帯は長軸が約35.5メートル、短軸が約33メートルありました。中央帯は環状列石の中心部にあり、長軸4メートル、短軸2.5メートルの楕円形をしています。石には平たい形と棒のように細長い形の石が見られます。大きさは20から60センチメートルほどで、桂川の川原石を運んで来たものと考えられます。石の数は約600個あり、穴を掘って埋め込まれているものやそのまま置かれたものなどが見られます。環状列石をつくる前には、あたりの地面を削って平らにする大掛かりな土木工事をしていたことが地層の観察からわかりました。 出入り口と考えられる部分も見つかっています。環状列石のすぐそばには、埋設土器とよばれるものが1ヶ所見つかりました。これは乳幼児を土器に入れて埋葬したり、遺骨が骨になった段階で土器に入れて再埋葬するものと考えられています。ほか、儀式の跡と考えられる砂利のかたまりが5ヶ所見つかりました。

環状列石のまわりには、竪穴式住居など集落の跡が見つかっていません。つまり環状列石はふだんの生活の場所とは離れた丘の上につくられていたと考えられます。そして、葬送や祭祀を行う神聖な場所を区画するために、たくさんの石が並べられたものだと考えられます。 また、縄文人は環状列石からた駒ケ岳のどの方向から日が昇るかを観察し、カレンダーとしていたと考える考古学者もいます。

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竪穴墓域

環状列石の南側5メートルほどの場所に、大小10個の土壙(穴)を内部に持つ竪穴墓域が発見されました。竪穴の大きさは10.5×11.5メートルのほぼ円形で、皿状に掘られています。 竪穴内の土壙は地層の埋まりぐあいや副葬品(お供えもの)と考えられる遺物の出土状態からほとんどが土壙墓(地面に穴を掘ったお墓)と考えられました。竪穴は竪穴住居跡に似ていますが、柱の穴や炉の跡などが見あたらないことから、最初からお墓を作るために掘られたものと考えられます。 また、環状列石と竪穴墓域は出土した土器の特徴から、同じ時期につくられたと考えられました。

これとよく似たお墓で周堤墓と呼ばれる遺溝が知られています。これらは大きな竪穴を掘り、その掘上げた土で周囲に環状の土塁を巡らせ、内部やまわりに土壙墓をつくる共同墓地と考えられています。 これまで北海道だけで発見され、分布域は道央や道東に限られ、特に石狩低地帯付近に集中して発見されていました。 このようなお墓が作られた時期は、縄文時代後期後半頃(約3000年前)と考えられています。

周堤墓と比較すると、鷲ノ木遺跡の竪穴墓域の周囲には環状の土塁が見られません。さらに、これまで発見されている周堤墓よりも時期が古いものなので、 周堤墓がどうやってつくられるようになったのかを考えるうえで、とても重要な遺溝と言われています。

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シルバーシートで保護された環状列石

現在、鷲ノ木遺跡では公開に向けた調査や整備を進めています。一般公開はしておりませんが、期間限定で見学会等を行っております。
遺跡のことで、わからないことやご質問がありましたら森町教育委員会社会教育課(01374-2-2186 文化財保護係)まで連絡ください。 

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