現在位置: トップページ の中の 教育と文化 の中の文化財・史跡 の中のふるさとの遺産その7

ふるさとの遺産

その7 森町の先史時代

縄文時代の社会構造―つまり集団関係から生まれる縄文人の生活空間が構成される過程には、やはり自然環境との対話の中から人間と自然との一種独特な関係が深まってきたものによるのだろうと思われます。その長い縄文的歴史の中で、約4千年前の鷲ノ木遺跡では、大規模な環状列石と竪穴墓域(共同墓地)が造られたわけですが、そこから想定されるのは、当時のムラには精神的にも豊かな生活感を持った人々で賑っていただろうということです。

さて、鷲ノ木の縄文人はどこでどのように暮らしていたのでしょうか。当時の生活習慣のなかには、すでに「うち」と「そと」の意識はあったようです。その物的証拠となるものが「竪穴住居跡」です。

つまり彼らの生活様式の中でも特に象徴的なものとされている「すまい」です。これは、いくら自然の中に溶け込んだ生活様式であっても、他の動物と違って自分たちだけの生活空間を自然の中に造りあげたわけです。この「竪穴住居跡」は縄文時代早期後半頃(約七千〜七千五百年前)から全国各地にもすでに存在しています。

同じように自然の中での生活空間を持つ他の動物たちは、人間界と同じ集団関係を保ちながら、季節ごとに食べ物を求めて群れをなして、北上したり南下したりを繰り返すパターンの生活様式でありました。その中での「うち」は単なる「寝場所」の確保ということになります。つまり、日が暮れてきた頃の到達点が彼らの一時的な巣となるわけです。

彼ら動物と人類の大きな違いは、いわゆる「えさ」のとり方ではなく、獲った物を口にすぐもっていく過程から一歩進化し、獲った場所から一旦「むら」に持って帰るという行動や食べ物に手を加える(煮る、焼く、干す)行動が伴いながら大きく飛躍してきた人類の歴史があるからです。その歴史的な飛躍の根底にあるものが、長い生活様式の中で生まれた「うち」と「そと」との明確な意識の高まりであり、その象徴である「竪穴住居跡」なのです。

さて、鷲ノ木遺跡のことに戻りますが、これまでの発掘調査により分かってきたことは、当時の生活空間より先に、神聖なる場所(特別な聖地)が発見されてきました。その場所は、標高70mの小高い丘の上です。その東約20m低い台地に「竪穴住居跡」の一部が発見されています。おそらく「むら」の一部だろうと思われます。その「むら」の東の位置に日が昇る駒ケ岳があります。当時のむらの人たちから見ると、日が沈む西側の部分(裏山)に聖地が存在することになります。今後は、この「むら」の発見に向けて発掘調査等を続けていきます。それにより徐々に四千年前の鷲ノ木むらの形態がみえてくることでしょう。

ふるさとの遺産その8へ