ふるさとの遺産
その6 森町の先史時代
前回は、「鷲ノ木遺跡群」で発 見された山の上の「聖地」、つま り大規模な墓域や多目的な広場と思われる施設等の墓制形態について述べましたが、今回は続編として墓制成立の背景となる縄文社会の構造(集団関係)について記述しましょう。
従来、縄文文化は早期から始まり前期、中期、後期、晩期(北海道では続縄文文化まで?)までをひとつの文化として考えられています。これはあくまでも、各時代の所産物である土器にみられる「縄文」という文様が連続して使われていたことによります。長期的な時代背景をみても約9千年から1万年にも及ぶ長い一つの文化といえます。これは世界的にみても他に類似した文化はまず無いでしょう。
しかし、各時期にみられる集落の形態・墓域の形態・土器や石器組成の形態―それらから生まれる祭祀等の精神文化の形態等のあり方は、決して同一文化とは言いがたい部分が多すぎます。特に大きな差が見られるのは、縄文時代の終盤である後期・晩期でしょう。その中心となるのはやはり、共同生活(人間の集団関係)の移り変わりと共に変化してきた墓制形態であり、集団墓の出現ではないかと考えられます。
徐々に人口が増大することで共同生活(集落)は大型化していきますが、安定した定住から生じる社会構造が背景にあれば、安定した精神文化も生まれてくるわけです。いわゆる集団墓という墓制形態が生み出されてきたのも、その当時の社会を反映している証でしょう。特に後期になってそれが特出してくるわけですが、北東北の青森、秋田では大規模な環状配石墓(環状列石ともいわれている)が、道内の千歳、恵庭では環状土籬(周提墓)がよく知られています。
縄文時代の墓は、早期以来すでに地面を円形や楕円形に掘り下げた竪穴を土壙墓とするものが一般的に存在しています。つまり、人の死に伴って墓が作られ、それに関連して祭祀(儀礼)が行われるという社会は、縄文時代の出現と共に社会構造の中に組み込まれていたのです。
定住もしくは半定住(季節ごとに移動)が一般的とされる縄文時代は長期間にわたり継続してきたわけですが、それは日常生活に必要な衣食住等の物資をより有利な条件で獲得できる地点を含んだ領域を手に入れていることが必要不可欠な条件でもあったわけです。また、その占有領域を守っていくことも生活していくうえで必要であったはずです。
こうした状況で生まれる緊張関係が当時の人々の間では身内の関係がより密接なものとなり、それぞれの占有領域を保っていくわけです。その結束力が基盤となり縄文人の集団生活が確立し、領域の固定化が成立するわけです。