森町のあゆみ

2014年9月9日

さくら

これまでの森町の歴史

古くからアイヌ語でオニウシ(樹木の多くある所)と呼ばれていた森町は、漁業の地として知られ江戸時代初期より、箱館周辺の漁民がニシンなどのさかなを求めて出稼ぎに来た所でした。

1738年には、鷲ノ木が本村となり村落が形成されていきました。
寛政12年(1800)、箱館六ヶ場所一円の人口が次第に増加したため幕府はここを和人地と定め、場所制度を廃止して、各村落の独立を認めました。
安政5年(1858)、幕府は箱館六ヶ場所の中心的な村落を「村」に昇格したので、鷲ノ木もはじめて正式に鷲ノ木村となり、これを機会に支郷であった森・尾白内は鷲ノ木村よりの独立を許可され、同年12月森村・尾白内村が成立しました。
明治を迎え、北海道に開拓使が設置されると、その地方出張所が森村に置かれました。


森町

明治13年、鷲ノ木・蛯谷・石倉の3村を管轄する鷲ノ木村外2ヶ村戸長役場が、翌14年、森・尾白内・宿野辺の3村を管轄する森外2ヶ村戸長役場が開庁し、さらに同22年、両戸長役場が合併して森外5ヶ村戸長役場となり、6ヶ村が1つの役場をもつに至りました。
同35年、この6ヶ村が合併して森村となり、同40年、一級町村制を施行し、大正10年には管内4番目の町制が施行されて森町が誕生しました。 昭和に入っても漁業を中心とした各産業の発展が続きました。
昭和36年、森町大火によって市街地の大半を焼失しましたが、都市計画整備・駒ケ岳山麓開発事業・濁川地熱開発と着実に躍進を続け、平成10年から第3次森町総合開発振興計画がスタートし、平成17年4月に砂原町との合併を機に閉町に至りました。

 

これまでの砂原町の歴史

豊かな幸を運ぶ海、噴火湾に面した砂原町は、1330年代に昆布の採集が行われており、1500年代にはニシンをおって和人が訪れ始め、1532年青森県蟹田村から権四郎が移住・開村し部落が形成されていきました。

明治時代に入ると場所請負制度の廃止とともに漁民が増え、定住者増加に伴い明治13年に砂原村戸長役場が設置されました。また、明治39年4月、砂原村と掛澗村の2村合併により、砂原村で2級町村制度が施行し、新たなあゆみが始まりました。
昭和時代に入ると、昭和4年に駒ケ岳が大噴火を起こし、軽石流、降石降灰による被害は軽徴でしたが、その後昭和6年には大雨により土石流が発生し、家屋、道路、鉄道などに被害を与えました。噴火湾への降石降灰は昆布礁を埋め、海水汚濁による漁業への影響などから、漁業を基幹産業とする砂原町にとって大きな痛手が残りました。


さわら

それでも人々は深い郷土愛のもと全国的な救済活動にも支えられ、災害から力強く立ち上がりました。昭和45年、著しい発展をみせる砂原村は、新しい時代を迎え、町政施行がおこなわれます。町制施行とともに役場新庁舎も落成。
小・中学校、公営住宅や水産加工団地の整備等も進み着々と町づくりを推進します。
平成に入り、近代化が進む時代の中、砂原ではゆとりや潤いのある暮らしに向けた町づくりに取り組んできました。
平成4年には砂原町町づくり運動推進協議会による「花いっぱい運動」が始まり、平成13年から第3次砂原町総合計画がスタートし、平成17年4月に森町との合併を機に閉町に至りました。

 

そして

平成17年4月1日、森町と砂原町が合併して、あたらしい森町が誕生しました。
これまでの両町の多くの努力と尽力に培われてきた歴史を糧に、こころとふれあいを大切にする「はつらつとした爽やかな町」を目指して、大きく飛躍しようとしています。

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